ブログタイトル考察のような妄想について

雑論

どうも、カナジシキです。

今回はブログ開設から1週間が経ち、毎日投与を恙無く行えているので、ブログタイトルである、「考察のにような妄想」について書いておきたいと思います。

自分語りなんであんまり面白くないです。

謎と考察

まあ、結論から言えばこれが自分の思う考察のポリシーだからです。

結局のところどんな考察をしようと、文学における世界の理は作者です。

このためどんな理不尽な答えであろうともそれに従わねばなりません。

このため、文学における、考察とは問題=作品の謎、答え=作品の今後となることが多いです。

しかし、自分は正直作品の今後と自分の答えが合っているかには興味がありません。面白ければそれで良いと思っています。

むしろ、つまらなげれば、本来は解答の作者の作品ですら悪だと思っています。

つまりは、自分の考察はパッと見、論は並べているが、所詮は二次創作の妄想の設定資料でしか無いのです。

解釈としての考察

文学における考察とはもう一つ存在します。

これはすでに完成された作品の疑問的や謎、矛盾点を解き明かす解釈です。

こちらを使って、先程は悪とまで言ったつまらないものも、自分なりに面白くできると思っています。

また、矛盾点も無理やり正当化できると思っています。

でも、やっぱりこれって考察じゃなくて妄想ですよね?

正しい考察

ここからの文は少し過激になるので先に言っておきますが、これから言うことは誰を揶揄しているのではなく、自分は書きたく無いという意味です。

むしろ、読む分にはタイトル間違ってるなと思うだけで、そういった文章は好きです。

ならば、妄想でない考察や解釈はどうしたら良いのかといいますと

ただ素材を並べて、あの作品とこの作品は似ていると述べたり

監督が同じだからこうなる、あの監督の弟子だからこうなると言ってみたり

聖書からの引用だ、北欧神話から着工を得てるだ論えば

妄想ではなくなると思います。

でも、それて

考察ですか?

考察というのは研究の過程の中心であり、一般に文学のそういった論を考察と言われるのはそこに起因します。

つまりり研究の何かの疑問に対して

実験→結果→考察→結論を構想し、

そこに、序破急もしくは起承転結を持たせて語るのが、ここでの考察です。

そして、その考察をもとにさらにこの手順を繰り返して行き真理に近づいで行くものなのです。

しかし、そういった類のものは

実験と結果のどれかしか書かれていないわけです。

そして、本来重要な考察を途中で投げ出し

どっちだ?とか期待します。で終わります。

それは考察ではなく感想です。

自分のD.C.4の正史とはラストのとって付けたような部分です。

まあ、何が言いたいかというと

考察を文学で行うと結論を出すと妄想ですし、妄想で無くしようとした場合それは感想です。

それなら、自分は考察という名の妄想で構いませんし、感想は研究の程をせず感想を書きます。名状し難いものは雑をつけます。

研究ごっこ

何故自分がそう考えるようになったかと言うと自分の考察の原点はシャーロキアンの研究ごっこだからです。

シャーロキアンの研究ごっことは、シャーロックホームズを聖典として研究を行う行為をさします。

これには、コナンドイルの記述ミスを無理やり解釈するものや、後付け設定による矛盾を解決するのものがあります。

また、シャーロキアンには著名な作家も多くおり、後に時代を席巻した作家も多くいます。その人達の作品には、モチーフはホームズの息子では?と問われる探偵がいたり、シャーロックホームズ内の疑問の研究一つを取り出して、それを主人公が語るだけの回だけで1話作ったものがあったりします。

確かに、それは凄いのですがそれって妄想だよなと思ってしまうのです。

ただ、逆に言えば良く出来た考察は一つの作品になると思っているのです。

まとめ

まあ、そんなわけで自分の考察とは、論により整合性を持たせた一つの二次創作の設定資料であり、妄想だと思っているのでこんなタイトルにしました。

また、本当はこの設定を元にした二次創作が出来たらなとも思うので、物語化したい人がいたらお声がけください。

タイトルとURLをコピーしました